2016年02月28日

メッセージの感じ方

私はハジメマシテのレッスンの時、

「タメシに〜してみましょう!」

とよくお伝えするんですが、
この時、その方のカラダの動きや声で、そのメッセージをどのように受けとったかを視てたりします^_^

結果はどうであれ、カラダが躍動して、動きが大きくなる方は
「〜してみよう!^_^」
と受けとった方です。

対してカラダが力んだり、硬くなったり、動きが小さくなる方は
「〜しなくちゃ(>_<)」
「どうやるのかしら?こうかしら?」
と受けとった方です^_^


その上で、更に
「もっと〜してみましょう!^_^」
とお伝えします。


そうするとまた、
「よし!もっと〜しよう」
と受けとる方と、
「あれ?出来てないのかな?違うのかな?」
と受けとる方に分かれていきます。


歌のチカラにおいて、これってケッコウな差が生まれちゃいます^_^


「〜しよう!」という思考は【意欲】なので、アタマとカラダに遊びゴコロをもたらして、自由にしてくれます。こうなると感受性が高まって変化を恐れなくなります。
これを貫けたら、ある程度のレベルまではスンナリ行けます^_^

「〜しなくちゃいけない」という思考は一つの【制約】なので、自分でルールを作ることになります(>_<)
こうすると、アタマとカラダは少し硬くなってしまって、カラダの変化に対して臆病になります。
感受性を自分で封じてしまうんですね^_^


これをもう少し深めると、

「〜しなくちゃいけない」という方は、正しいor正しくない、という【答えを求めて探す思考】

「〜しよう」という方は【答えはないので探さない思考】

という部分が視えてきます。

私はよくレギュラーのゴスペルレッスンやヴォーカルレッスンで
「正しいや間違いという答えのあるものに働くのが、理解するチカラやわかるチカラ。
歌には、歌詞や音程、リズム以外《わからないもの》がほとんどなので、それはあまり使えません^_^
なので、わからなくてイイんだ、自由なんだ、と《まずは》思ってみてください」

とお伝えします^_^
すると、理解しようという意識から、感じようとする意識が働きはじめて、声やカラダを柔らかくしてくれます。

感じるチカラは、わかろう、覚えよう、出来るようにならなきゃ、という理解を横に置いたときに、ヒラキはじめます^_^

どんなときも、自由な心で歌いましょう\(^o^)/
posted by kim at 12:33| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2016年02月27日

お悩み

先日、本当に久しぶりですが、
こんなお言葉をいただきました^_^

「先生はクリスチャンでもなく、仏教徒でもなく、ゴスペルも御詠歌も教えてると聞きましたが、そんなこと許されるんですか?していいんですか?(>_<)」

その方はご実家が仏教でご本人は強い信仰はないと仰る方でしたが、気持ちが良いくらいの直球質問^_^
思わず楽しくなりましたが、やっぱりこのテーマで悩まれる方がいるんだなぁと思いまして(⌒-⌒; )

昔はよく、この手のお話やご忠告をいただきましたが、最近は私が無節操者だというのが伝わってきたみたいで、トンとなかったものですから懐かしくなりましたね〜^_^

で、私は答えます。

「はい^_^許されますし、していいんですよ\(^o^)/」

「えっ?だって信仰が無いのに指導なんてしていいんですか?」

「ええ、私は信仰心ありますよ〜、正式な仏教徒でもクリスチャンでもありませんが^_^」

「よくわかりません(>_<)」

「ええ^_^わかろうとすればわからないでしょうね〜。なので、それは許されるし、いいんだということだけ覚えてくださればいいですよ^_^」

「益々わからないんですが、、、」

「ふふ^_^
わかりたいのは今のあなたですか?それとも、今までのあなたですか?」

「はっ?」

「あなたが抱いている、許されないんじゃないか?というお悩みを作っているのは私ではありませんよ、という事です。
そのお悩みはあなたが作られてるんですよ^_^」

「いや、だからそれは先生のやられていることが違うんじゃないかと思って」

「そう、それは間違ってる、と言いたい方があなたの中にいるんですよね^_^
その『あなた』が、こうあるべきだと今のあなたに投げかけてきたんです。
で、今のあなたがそれを確かめたくなった^_^」

「それは、、、確かにそうかもしれませんが、、」

「ということは、そのお悩みはあなたが、あなたの世界の中で作ったものであって、私はあまり関係してないことになりませんか?^_^」

「……。」

「うん、いくらなんでもそんな風に言われるとなんだか騙されたような気分になりますよね〜^_^
なので、私なりの私見をお伝えします。こうあるべきだと今のあなたに叫ぶ『あなた』にお伝えくださいな^_^」

「たとえば、目の前に大きな大きな一つの山があったとします。その頂きは遥か上空で目にはとても見えません。そんな大きな山です。
ある人は西から、ある人は南から、その山を麓から登ろうとしています。
その山の登り方は基本的に自由なので、入り口も道も無数にあります。

そんな麓の、ある場所に門と立て札がありました。
西の立て札には『Buddhism ROAD』
南の立て札には『Christianity ROAD』
と書かれています。
その道は他のケモノ道のような山道よりも、とても美しく整えられ、誰もが頂きに向かえるように作られていました。
それを作られたのが、
イエス様や仏陀です。
目的は一つ、
彼らが居たその頂きへ皆が無事に来られるようにするためです。

頂きにも立て札が立っていて、
そこには、
【人が目指す在るべき姿】と書かれています。
我々、人間や衆生はそこを目指すために生まれてきました。

私はその山を南西から登っています。
舗装されていないので、なかなか大変ですが、それはそれで楽しい山道です。

御詠歌は西の道に、ゴスペルは南の道に、道すがら退屈になったり、足元の灯りが消えたりしないように用意されていたものでしたが、それらがあまりにも素晴らしく楽しいものだったので、他の道を歩む人たちも道すがらにそれを歌いたいと願うようになりました。
そして、それを歌う事でその道を歩んでない人も笑顔で頂きを目指すようになれました。

さて、ここで質問です。

山の頂きを目指すこと
ゴスペルや御詠歌を歌うこと
決められた道を歩むこと
我々にとっての、
また、イエス様や仏陀が仰っている
目的はどれですか?
手段はどれですか?

このテーマにおける全ての悩みはこの質問に帰結します。

私は頂きを目指すことが目的です。
ゴスペルや御詠歌、そしてどの道を歩むかはあくまで手段です。

「それを歌うためには、その道を歩まなければならない」
「その道のものを勝手に歌ってはいけない」

この言葉には、頂きを目指すことが目的として含まれていません。

歌や道が目的になっていて、頂きへの歩みが手段になっています。
おそらく、その道を歩む自分が正しいのかどうかわからなくなった方や、正しいと思いたい方の心が、その言葉をご自身で作られたのでしょう。

それを仏教ではこう言います。
「過去の己への執着(しゅうぢゃく」
「世間由(せけんゆう)による苦しみの創出」

悩まれる方も、批判される方もされた方も、全てはその方が、自分でそれらを創りだしているんです。

私は執着しませんし、自由ですから、そういったものを作りませんし、受け付けません。

ですから、私が最初に申し上げたように、あなたが今日覚えるのは、『それは許されるし、行っていいのだ』という言葉だけなんですよ^_^」

「…歌って、いいんですか?」

「はい^_^」


その方はやっぱりよくわからないと言いつつも、少し明るい顔になって帰っていかれました^_^

悩みや苦しみ、嫌な感情は他人ではなく、自分が創るもの。
でも、それらは感情も含めて、
とても愛しいもの。
そのおかげで、気づかなかった自分をまた知ることが出来ます。

私は、感情とともに湧き上がる悩みや苦しみをそんな風に思っています^_^

まぁ、私が無節操と思われるのも無理ないですよね(⌒-⌒; )
不愉快に思われた方がいらっしゃったらごめんなさいm(__)m


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posted by kim at 18:04| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする